夢がない人もある人もみんなカッコいい

幼い頃からませていてどこか達観したような子供だった(今も子供だけど。)

なので何かに"一生懸命"な人や

夢、努力などが苦手だった

 

夢など一度も持ったことがない私は

一生懸命や努力といったものとは無縁で

体育会系の暑苦しい感じがダサいと思っていたし、好きではなかった

常に冷静で孤高な存在こそかっこいいと思っていた

 

しかし最近、夢や努力、一生懸命などの言葉に惹かれるようになっている

暑苦しいと感じていた姿もかっこいいと思える

 

夢を持っている人が魅力的に見える

一生懸命に生きている姿がかっこいい

 

様々な"かっこいい"の形を受け入れ尊重することができるようになってきている

この価値観の変化は成長だと思える

いい方向に成長できている気がしてとても嬉しい

 

色々な人と会って話すことで経験値も上がり価値観も変化しているのだな

人間は人間でしか変われないのかもしれない

 

全ての経験は財産だ…

 

 

 

 

 

他人を否定してしまう理由って何だろう

今日も相変わらず死にたいが、生きてる

 

毎週必ず見る訳ではないが放送日を覚えていると何となく見たくなる「ねほりんぱほりん」。

 

他人の生き方を垣間見ることが出来て面白い

 

そんな考えもあるんだなあ

そういう生き方もあるんだなあ

そういった形の幸せもあるんだなあ

色んな人間がいて面白いなあ

と単純に思う

 

しかし一緒に視聴していた母は他人の生き方を鼻で笑っていた

偏った思考をしていることが狂ってると思ったのか機嫌を損ねていた

 

何故だろう。

 

なぜ他人の生き方に否定的な態度を取るのだろう。

 

妬み嫉みなのかもしれないなあ

 

 

 

人生で出会える人の数には限りがあるし、

出会えないような人の話を聞けたり、生き方をしれるのは面白い

 

為になるような話は基本的にはないが

視野が広がる気がする

 

あくまで"気がする"だけだが

 

死にたいと思う反面幸せになりたいとも思っているから色んな形の幸せを知ることで自分に最適な幸せも分かる気がする

 

他人を否定することからは何も生まれない

 

他人の全てを受け入れるとまではいかなくても

否定はしない スタイルを貫いていきたいな

 

魔法の言葉「どうせ死ぬし」

午前中は精神的に不調なことが多くネガティブなことしか考えられないが

夜になるにつれ少しずつ思考が回復してくる

 

 

「どうせ死ぬし」

 

私は友達とこの言葉を交わすことがよくある

 

周りから見れば一見ネガティブな印象を受けるのかもしれないが

私にとっては魔法の言葉だ

 

どうせ死ぬし、だったら幸せなことをしよう
これくらいポジティブな言葉

 

全ての物事を良い意味で軽く考えられる

常に考えすぎてしまっているから余計響くのかもしれない

 

この言葉に依存して思考停止しているだけかもしれない

 

今日も起きてる間ボーっとしてるだけ

何もできなかった

 

でもそんなことどうでもいいのだ

 

どうせ死ぬし

 

私の心がその言葉だけで少しでも軽くなり

楽しいことを考えられるようになるのだから

 

フリーターだろうが

ニートだろうが

大学生だろうが

社会人だろうが

社長だろうが

 

どうせ死ぬし

 

 

 

 

生きるのってホントつらい

死にたいというより生きていることが辛い

 

でも今日も生きてる

私が生きているのは明確な理由がある

 

奨学金を借りていたのでその返済が残されているから。それだけ。

それだけの理由でまだ生きている

 

ホントは不慮の事故にでも遭って今日にでも死にたい、消えたい

でも自殺はしない。

 

先週までは結構楽しく生きてたのにな、

今週はからっきし駄目だな

 

涙がよく出る週だな

 

先日引っ越しをして環境が変わった所為だろうか、家族からの無意識なプレッシャーを感じてしまうからだろうか、何気ない言葉に心が傷ついてしまうからだろうか、自己嫌悪の所為だろうか。

 

どんな理由でこんなうつ状態なのかは自分でも分からないが明日は気力が湧いてるといいな

 

少なくとも友達と会っている時間はこんな状態にはならないから友達に会いたいな

 

今は着替えをする気力もないから外出もできないけど。

 

明日は楽しいことだけ考えられる日になったらいいな。そのために今日は明日の分の涙も流しておこう

 

 

大学に入学し休学した2017年

 

普通に暮らしていくには特別不便なことはないが、ただただ退屈な田舎に住んでいた私は幼い頃から都会への憧れが強かった。

 

その為、関東圏の大学に行き東京に通える場所に住みたかった。

 

第一志望ではなかったが、念願叶い関東圏の大学に進学することができた。合格した時は、受験期猛勉強したことが報われた気がして嬉しくて泣いた。

そして都内まで1時間程の場所に住むこともできた。

私は本当に嬉しかった。幼い頃から憧れていた東京をこんなに身近に感じられることがただただ嬉しかった。

そしてこの時点で私は夢を叶えてしまったのだ。

 

進学した大学のことはセンター試験が終わってから存在を認識した程度であった。

現在になってやっと気付いたが、私は大学自体にそれ程興味を持っていなかったのだ。

進学することが当たり前という環境に身を置き、考えることを放棄し、とりあえず流れで進学してしまった。

 

ただ勉強すること自体嫌いではないので進学という選択は間違っていなかったと思っている。

また大学受験を経験したことによって目標に向けて計画的に真っ直ぐ努力ができる、という自分の強みを知れたからだ。

そして私は案外ポジティブだということにも気付けた。

 

しかしそれは、現在私が精神的に余裕を持てているからそう思えるのだ。

 

私は専攻する学科に関しても、あまり考えずに進学してしまった。

人に言われた影響か親が勧めていたからなのか理由は分からないが、幼い頃から看護師という職業を意識していたので自然と看護学科を志望した。

ただ興味は全くなかった。寧ろ向いていないと思っていた。しかし高給である為奨学金を借りる予定だった私は、将来の安定性や親を安心させたいなどの思いから本音を打ち明けることもなく進学した。不満も感じてはいたが、当時はどんな仕事も嫌な面はあるし私なら耐えられる、なんとかなると思っていた。過信だ。

また、私はお金が好きだった。その為高給であればそれだけで頑張れると思っていた。

 

入学後、授業中寝ることも多々あったが元々勉強が苦手ではなかったので期末テストもしっかりと点を取り、前期は単位を落とすことはなかった。

 

夏休みも終わり、後期が始まった。

楽しいと感じる授業はなかったし、未だ看護にも興味が湧かなかった。それでも騙し騙し通っていた。

唯一の友達が前期に単位を落とし、後期の途中から学校に来なくなった。それでも騙し騙し通っていた。

奨学金を借りているし、親にも心配、迷惑を掛けられない、私は中退なんて許されないしそんな事はこれまで微塵も考えてこなかった。

しかし、友達が来なくなったことで中退という選択肢を考え始めていた。

 

1人で通い続ける強さがなかっと言われればそれまでだが、興味のない学問をあと3年学び、その後もその仕事をしなければならないのかと考えた時恐ろしくて悲しくなった。

お金の為だけにそんな苦痛を耐え抜ける自信がなかった。

生活費のためにバイトを幾つか経験したが、少なくとも私はお金のためだけに働き続けることはできないと知ってしまった。

 

学校に行けなくなった。学ぶことに恐れを抱いた。

私は心が壊れてしまっていた。

自分では気づいていなかったが、完全に精神が疲弊してしまっていた。

 

 決意するまでに時間は掛かったが、休学することを決心した。

 

2017年、こうして転機を迎えた。

 

2018年、今年は自分の幸せを行動の基準にしてみようと思っている。  

こんなに明るく新鮮な気持ちで迎えた新年は初めてだ、これからの人生にワクワクしている。