無関心な人
美しき天才グザヴィエ・ドラン監督の
『たかが世界の終わり』という映画を観た
私はこの主人公に共通点をいくつも見つけ、ひどく共感した
主人公は人気な劇作家で疎遠だった家族の元へ余命が僅かであることを告げるために12年ぶりに帰省するところから物語が始まる
主人公と家族との間には大きな隔たりがあった
兄にも妹にも理解できないと言われており
母にも「あなたのことは理解できない、でも愛してる」と言われてしまう
無口な主人公は質問には2,3言で応え、記念日などに送る絵葉書のメッセージも2,3言で
家族に対し無関心だと思われている
この”無関心”という部分に私は胸を打たれた
私も母から「家族に無関心」だと言われたことがある
不意にそんな言葉を投げつけられた時すごくショックを受けたのを覚えている
なので主人公の気持ちが痛いほど分かった
表面的には無関心に見えても決して無関心などではないのだ
内に秘めた感情は情熱的だと思う
自分の中には熱い気持ちがこんなに溢れているのに無関心だなんて一蹴されてしまうと心外だしプライドを傷つけられた気持ちになってしまい心を閉じてしまう
常に色々な思考がぐるぐると回り、詰まりすぎて言葉にできないことが多々ある
(言語化能力が低いのかもしれない)
他人の表情などをよく観察し他人の気持ちを優先して考えて、言わなくてもいいと判断したら余計なことは口に出さないので結果的に無口だと思われてしまう
自分でいうのも可笑しいが親切心と優しさは人並み以上にあると思う
ただそれを押し付けようとは思わないので誤解されてしまうのかもしれない、正直悲しい
また家族に涙を見せないところも同じだ、と思ってしまった
私は家族であっても弱いところを見せることが苦手だ
同じ屋根の下で暮らしていても泣くときは絶対に見られないところで泣く
強いように見えて実はとても繊細な主人公に心打たれた
最終的に主人公は家族に”理解されること”に諦めをつける
おそらく主人公はもう死ぬまで実家に帰らないだろう
家族であっても価値観は人それぞれであり血が繋がっていようが他人なのだ
ドラン監督の作品を観ると毎回他者との相互理解は本当に複雑で難しいものだと感じる
というか本当の意味で他人を”理解する”ことは不可能なんだとすら思う
大事なことは自分と異なる他人のことを”理解する”のではなくて恐れず”認める”ことなのかもしれない