友達の幸せを喜べる心の余裕

先日、親友から突然話したいことがあると連絡をもらいその日に会った

 

1~2ヵ月前くらいに会った時は就活中という事もあり大分疲れている様子だった

いつも明るくて楽しい子だがその時は自分は根暗で友達もあまりいない、とネガティブな発言が多かった

ストレスで精神的に大分参っている様子だったので話したいことがあると連絡を受けた時、正直ネガティブで深刻な相談なんじゃないかと思いすぐに会うことにした

 

しかし実際会うと前より顔色もよく笑顔で現れた

そして一緒にファミレスで食事をしつつ近況を軽く報告し合った

一通り話し落ち着くと親友は少しもじもじしながら「実は...」と本題を切り出してくれた

 

「恥ずかしいなあ〜...実は...」と中々言えなさそうにしていたので

「彼氏ができたの?」と聞くと満面の笑みで「うん」と頷いた

 

嬉しかった

嬉しすぎてハイタッチした

どういう類の喜びなのか分からないけどわたしも自然と笑顔になったし自然と「バンザーイ!」なんて言ってた

親友は中学生の時の彼氏がトラウマでもう恋愛はいいと言っていたから余計嬉しかった

わたしは彼氏がいたことがないから彼氏がいる幸せを知らないけど、親友は本当に幸せそうだったし嬉しそうに惚気話を聞かせてくれた

そして何よりもその幸せな報告を1番にわたしに知らせてくれたことが嬉しかった

喜んでくれると思ってたと言ってもらえたことが嬉しかった

そういう風に思われてることが嬉しかった

 

こういう報告は人を選ぶと思う

特に彼氏のいないフリーな私に対しては遠慮をして知らせてくれなかったりする

それも優しさなので分かる

しかし友達のハッピーはもれなくお裾分けして欲しい

 

それと親友の幸せを心から喜べる余裕があることに安心した

素敵な日曜日だった

 

いなくなって初めて知る他人からの評価

バイトの人がバックれた

割とよくある話だと思う、バイトだし

 

何か事故に巻き込まれたんじゃないかと心配する人がいれば

その人の所為で空いてしまったシフトの穴を心配する人、寧ろその人自身が何か事件でも起こして逃げてるんじゃないかという人

いろんな人がいる

 

その人がいなくなったことでその人が周りからどういう評価を受けていたのかが明らかになっていく

ドロドロだ

 

いなくなってしまったので真偽は定かではないが、仕事中に独り言で「ぶっ殺すぞ」などと言っていたそうだ

それを聞いた人は彼のことをサイコパスだと言っていた

個人的には几帳面で人並みの気遣いができる人くらいに思っていたが

どちらかというと彼をよく思っていない人の割合のほうが高いことに驚いた

 

 

 

人の気持ちは本当に分からないものだな

 

彼のことを散々言っているのを聞いて、ふと私が彼の立場だったらどう言われるんだろうと思った

多分、いい人だったのに〜くらいかな

いい人=どうでもいい人 の略だから最悪な評価だ

そんなつまらない評価を受けそうな私に比べたらサイコパスの烙印を押されてる彼のほうがマシに思えてきた

 

普段他人からの評価は気にしないけどたまにはそういう事も考えてみると

客観的に自己評価できていいのかもしれない

 

 

 

論点がずれてしまったな

無関心な人

美しき天才グザヴィエ・ドラン監督の

たかが世界の終わり』という映画を観た

 

私はこの主人公に共通点をいくつも見つけ、ひどく共感した

 

主人公は人気な劇作家で疎遠だった家族の元へ余命が僅かであることを告げるために12年ぶりに帰省するところから物語が始まる

 

主人公と家族との間には大きな隔たりがあった

兄にも妹にも理解できないと言われており

母にも「あなたのことは理解できない、でも愛してる」と言われてしまう

無口な主人公は質問には2,3言で応え、記念日などに送る絵葉書のメッセージも2,3言で

家族に対し無関心だと思われている

 

この”無関心”という部分に私は胸を打たれた

私も母から「家族に無関心」だと言われたことがある

不意にそんな言葉を投げつけられた時すごくショックを受けたのを覚えている

なので主人公の気持ちが痛いほど分かった

 

表面的には無関心に見えても決して無関心などではないのだ

内に秘めた感情は情熱的だと思う

自分の中には熱い気持ちがこんなに溢れているのに無関心だなんて一蹴されてしまうと心外だしプライドを傷つけられた気持ちになってしまい心を閉じてしまう

常に色々な思考がぐるぐると回り、詰まりすぎて言葉にできないことが多々ある

言語化能力が低いのかもしれない)

他人の表情などをよく観察し他人の気持ちを優先して考えて、言わなくてもいいと判断したら余計なことは口に出さないので結果的に無口だと思われてしまう

 

自分でいうのも可笑しいが親切心と優しさは人並み以上にあると思う

ただそれを押し付けようとは思わないので誤解されてしまうのかもしれない、正直悲しい

 

また家族に涙を見せないところも同じだ、と思ってしまった

私は家族であっても弱いところを見せることが苦手だ

同じ屋根の下で暮らしていても泣くときは絶対に見られないところで泣く

強いように見えて実はとても繊細な主人公に心打たれた 

 

 

最終的に主人公は家族に”理解されること”に諦めをつける

おそらく主人公はもう死ぬまで実家に帰らないだろう

 

家族であっても価値観は人それぞれであり血が繋がっていようが他人なのだ

ドラン監督の作品を観ると毎回他者との相互理解は本当に複雑で難しいものだと感じる

というか本当の意味で他人を”理解する”ことは不可能なんだとすら思う

 大事なことは自分と異なる他人のことを”理解する”のではなくて恐れず”認める”ことなのかもしれない

 

 

価値観の成長

今月成人を迎えた。

心持ちとしては成人を迎えてしまったというほうが適切かもしれない。

 

20歳ってもっと大人かと思ってた、とよく聞くが本当にその通りだ。

 

自分が大人になったなど1ミリも感じない。

それどころか今年に入ってからの私は高校生の時以上に幼稚だ。

例えようのない将来への不安に押し潰されそうになり泣き続ける夜もあるし

気分によって態度が変わってしまったり

感情的になって心ない言葉を口走ってしまうこともある。

 

また、高校生の時のほうがよっぽどか集中力も決断力も体力もあった。

特に集中力は本当に落ちてしまったなあと情けなくなる。

しかし高校生の頃より成長したなと感じられる部分もある。

 

それは視野が広くなったこと価値観の変化だ。

 

元々大勢の人と関わることが苦手なので極力人との関わりを避けてきた。

自分を傷つけない人としか関わりを持たなかった。持つ必要もなかった。

しかし一人暮らしを始め、新しい土地で生活をすると自ずと今まで関わったことのない

ような人とも関わることになる。

新しく出会った人の話を聞く、

異なる価値観に触れる、視野が広がる。

世の中には本当に様々な人がいるのだと少しだけ知ることができた。

そして当たり前なんてどこにも存在していないと知ることもできた。

 

特に私に新しい価値観を与えてくれたのは夢を追っている子だった。

リアリストの私には無縁だった”夢”を初めて眩しくて美しいものだと感じた。

夢を追うなんて馬鹿馬鹿しい、そんな風に斜に構えていた自分が恥ずかしいと思う程

夢を語る子は皆キラキラしていたのだ。

というよりアイデンティティクライシスに直面している私にとって揺るぎない”好き”があることに憧れたのだ。

 

お金こそが1番の幸せだという虚構の価値観が崩れて幸せの価値観を1から再考する中で、

こうしたキラキラした子達との出会いは今まで軽蔑してきた類の”やりがい””自分の好きなこと”は私の人生において重要な鍵になっていた。

 

未だに大勢の人と関わることは不得手だが、人との出会いに感謝できるようになった。

大学入学当時とは明らかに価値観が変化した。

価値観が変化したことによって自分の心に耳を傾けようと意識するようになった。

また、自己投資をしようと思えるようになった。(主に勉強費用、本)

つまり自分の人生と初めてしっかり向き合い始めたのだ。

 

冒頭、成人になってしまったと書いたが私の人生は始まったばかりだ。

まだこれだ!と没頭できる好きなことは曖昧だが自分と向き合うことを諦めなければ道は開けると信じてる。

自分を信じることを諦めない。

これは20歳を迎えた2018年5月の決意表明だ。

 

 

 

 

就職のための進学という文化

文化的な生活に関する地域格差が話題になっている

 

記事を読んで、私自身も地方出身者であり関東の大学に進学した立場なので共感し得る部分がある

 

地域格差とは違うが我が家には"学ぶための進学"という当たり前の文化が欠けている

 

私は自称進学校に進学したため大学進学は自然な流れとしてあったが大学は就職するための手段としてしか捉えていなかった

 

というか捉えられなかったというほうが正しいか

"学ぶ" という点に重きをおけていなかった

 

大学進学はより良い企業などに就職し、より高収入を得るため であった

そして今もこの考えは間違っていないしその通りであると思っている

大学に進学し教養を深め、知識量を増やし、スキルを磨くなどすれば、より高収入な職に就けるのは当然の流れだ

 

しかし手段としてだけではなく"学ぶ"という目的もしっかりと捉え続けないといけないなと感じた

 

"就職のための進学" ではなく "学ぶための進学"

という文化を少なくとも我が家には浸透させたいものだ

 

しかし学ぶための進学は金銭的余裕が前提になってくるので、やはり世の中矛盾が多くて難しいな

 

 

 

 

 

様々な幸せを知るという幸せ

人生を充実させるものは本当に千差万別なんだなと最近つくづく思う

 

今まではつまらないと思っていた何者でもない人たちの当たり前の日常、普通の家庭、そういう"普通"が尊く感じる

 

一度堕ちるとこまで堕ちたからこそ感じられるようになったのだろう

 

この世に当たり前なんてどこにも存在しないし

ひとりひとりが小さい物語の中を生きている

 

大金を得ることも幸せだし、夢を叶えることも幸せ、好きな人と出会い結婚することも幸せ、好きな仕事をすることも幸せ、好きなもの好きなだけ買うことも幸せ、趣味に生きることも幸せ、

 

生きて様々な人と出会い、経験をする中で様々な幸せのかたちを知る

 

人生は面白いな

 

一年前の自分よりも確実に視野が広がっていることを実感して嬉しくなった

 

理不尽なことや辛いことも勿論沢山あるし、寧ろそういう経験のほうが後を引くけど

出来るだけ自分の幸せに関心を寄せ続けていたいな

 

そして好きな人たちの幸せを心から喜べる自分で在り続けたい

 

 

自分を変えたい変わりたい

そう思っていても実際行動には中々うつせない

 

自分自身のどこに不満を持っているのか

どこをどういう風に変えたいのか

明確なビジョンが分からない

そのため、結局何も実践できない

 

ああ、こうしてダラダラと過ごしている間にも

世の中の天才達は偉業を成し遂げ

夢を叶え、世界を廻しているのだな

 

ふとそんな事を思い、絶望してしまう

私に出来る事なんて限られているし大きな夢がある訳でもないのに絶望してしまうのだ

 

普通であることは幸せだが

無意味に生活し続けることは死んでいるも同然ではないのか

そんな風に考えてしまうのだ

 

この思考を早くどうにかしなければ

 

思考を少しずつプラスの方向にもっていきたいものだな